Sunshine1003’s blog

思ったことを思ったままに綴ります

”劇場版ゴールデンカムイ”が日本版ハリーポッターになってほしい(願望)

劇場版ゴールデンカムイを視聴して

土曜日に劇場版ゴールデンカムイを視聴した。

 

良すぎた。

 

何が良かったのか語りたい。

 

キャスティングが良い

ほんまにキャスティングが良かった。主人公一向はもちろんのこと、特によかったのは鶴見中尉役の玉木宏土方歳三役の舘ひろし

 

鶴見中尉役の玉木宏さんは、鶴見中尉のぶっ飛んだ感じを見事に表してくれていた。

原作ほどのぶっ飛び感は感じないが、「あ、こんぐらいのぶっ飛び感なら現実世界にもいるかも」と思えるぶっ飛び感。ちょうどいい塩梅なのだ。

特に主人公の杉元を尋問するシーンが最高だった。現実的ではないが、どこか現実味を感じるシーンで、見ているこちらもドッキドキした。

今後、原作に登場する頭のネジが吹き飛んだキャラクター達が描かれるのがとても楽しみになった。

 

そして個人的に1番かっこよかったのが土方歳三役の舘ひろし。メイクの感じとかもあるかもしれないが、本当に漫画のキャラクターが現実世界に飛び出てきたんじゃないかと思えた。

初登場シーンで、

「男子はいくつになっても刀を振り回すのが好きだろう?」

と振り返る姿。鳥肌が立った。

私は原作を10巻まで無料配信で読んだものだから、このシーンについては予習済み。

だから、次に来るセリフが分かっている状態にもかかわらず、そのシーンが出てきた瞬間

「あっちゃぁ~かっけぇぇぇ」

と心の中で声を漏らしていた。マジでビビるぐらいかっこよかった。

 

料理が美味しそう

基本的なストーリーは主人公の杉元とアイヌの少女アシリパが、北海道のどこかに隠された金塊を探すトレジャーハント物語なのだが、原作ではアイヌ文化の暮らしの描写が多く見られる。そのうちの一つが料理だ。

原作にも数多くの料理が存在し、「これってどんな味なんかな?」と気になりながら読んでいた。

映画の中でも料理は多く登場した。狩りをした動物をアイヌ文化の”チタタプ”と呼ばれる調理法で調理し食べる。その映像が、頭の中にある原作で見た白黒の記憶に彩りを加える。

「へぇ~こんな感じなんかな」

もちろん食べたこともないし、映画の撮影で使われたものが本当に狩りをした動物かは不明だ。でも、少なくとも映像で見ることで白黒の記憶の「答え合わせ」ができる。これが楽しい。

 

おいおい、これからどうなるんだ!?

今回劇場版で描かれたのは、物語の序盤も序盤。事前に「この辺までいくかな~」と予想していたものより遥かに短かった。

エンディング後、今後出てくるキャラクターたちのカットインが出た時、「うおお!」と感動した。

今後、どのようなスパンでこの作品の続編が公開されていくのか、とにかくワクワク感に満ち溢れて物語が終わった。ワクワク感に駆られ、その足でゲオへゴールデンカムイのレンタルコミックを借りに走った。

 

日本版ハリーポッター

今作の監督は佐藤信介監督。この監督は現在、キングダムの制作も続けている。キングダムもキングダムの方で現在第3作まで上映され、今後も続いていくだろう作品だ。

ゴールデンカムイの方も、今作では絶対に終わらないだろう作品だ。

私は、今後は夏にキングダム、冬にゴールデンカムイという夢のローテーションが出来上がることを切望している。

 

ただ、ハリーポッターのようにゴールデンカムイを続けていくにはいくつか問題もあると思う。

今思いつくのは、キャストの年齢・健康問題、ロシアの描写問題。

 

まずはキャストの年齢・健康問題。まず年齢問題だ。ハリーポッターと比較してみると、ハリーポッターは作品ごとにキャラクターたちの学年が上がっていく。そのため、年齢を重ねていくキャストたちは不自然どころかむしろ大歓迎だったはずだ。

その点、ゴールデンカムイは作品全体を通して、1年の月日しか流れない。

しかし、現実世界の月日はそれよりもはやスピードで流れていく。そのため、どこかの時点でキャストの年齢感が不自然に感じる瞬間が来るのではないかと思う。

さらに、健康問題。この点はハリーポッターが奇跡すぎるところもあると思うが、キャストが変わったのはダンブルドアのみで、その他のキャストは奇跡の皆勤賞。エグすぎる。考えたくないが、長い月日にわたる作品であればキャストに健康問題が発生することはあり得なくない。

そしてこの問題は受け手側の寛容さにかかっていると考えている。私は個人的にこのゴールデンカムイという作品においてキャストの変更は不可避だと思っている。そんな時に、二代目○○を寛容に受け止める心を受け手が持ち合わせていれば、きっとこの作品は長く愛されるのではないかと思う。

 

2つ目は原作後半の北方領土とロシアの絡みだ。原作を読み進めてわかったのだが、物語の後半、主人公らは樺太に向かう。そこではアイヌの民族やロシアの民族など多種多様な民族が暮らしている様子が描写される。果たして、これを日本の映画で描けるのかという問題だ。

実は、今回の劇場版において、印象に残ったセリフ変更がある。

それは、冒頭の日露戦争のシーンで杉元が発した

「奴らの白いケツに嚙みついてでも生き延びてやる」

というシーンだ。このセリフ、原作では「奴ら」の部分が当時の兵士たちが使っていたであろうロシア人の蔑称なのだ。その後、作中に出てくるアイヌ民族に向けた差別発言は変更なしだった。だからこのシーンがやたらと印象に残っている。

多方面への配慮が必要なこの時代。いくら差別的な意図が無いにしても、ロシアの文化を日本の映画に登場させるということは少しチャレンジングだろう。

おそらく様々な政治的事情が関わってくると思われるので、この問題に関してはこの辺で。

 

さらに、今後は、作中に登場する奇抜なキャラクターたちの個性と多方面への配慮を両立させるという難しいバランス感覚が問われていくのではないかと思う。

 

まぁなんにせよ、私はこの劇場版ゴールデンカムイが大好きだ。そんな大好きな作品が今後も末永く多くの人に愛されながら続いていく未来を願いたい。

バッテリーピンチ

突然の危機

ここ数か月で一番ヒヤッとした。

 

事件は土曜日。金曜日に先輩とサ活した次の日。髪を切りに行こうと11時ごろに家を出て車に乗る。

 

「あ、ルームライトつけっぱなしやった」

 

この時点ではそこまでヒヤヒヤではない。なぜなら、これまで何度かルームライトをつけっぱなしにしてしまったことがあるが、大した問題ではなかった。

 

でも今回は大した問題になった。

エンジンをかけようとスタートボタンを押す。

 

きゅる、きゅる、きゅんきゅんぶるん

 

あれ、セルモーターの動きが怪しいぞ。なんとかエンジンがかかったが、明らかにおかしいかかり方をした。

 

次の瞬間、ディスプレイに警告灯が表示される。

 

バッテリーの異常が検知されてしまった。やばい。

アイドリングストップにも異常が検知され、アイドリングストップが機能しない。

 

これはまずい。今週の水曜日に遠出の予定があり、ここで車を失うわけにはいかない。

かといってバッテリーの異常を抱えたまま遠出するのも怖い。

 

とりあえずディーラーへ車を走らせた。

最悪交換か、交換なら10万ぐらいかかるかな…絶望である。たった一度の消し忘れでこんな事態になるとは。

ディーラーで点検していただき、結果が出た。

 

「バッテリーの状態なんですが…」

 

ごくり

 

「以上はありませんでした。」

 

ん?異常なし?

検査結果の数値を見せてもらうと、ぶっちぎりの100%。とりあえず交換の危機は回避した。

 

となると、なぜ異常の警告灯が出たのか。

 

話を聞いてみると、どうやら車のコンピュータの異常だったらしい。

 

私は中古車に乗っている。そして私が購入する前の前オーナーか、はたまた中古車ショップかが、バッテリーを交換したらしい。そしてその際に、バッテリーの状態を初期化するプログラムをコンピュータに読み込まなかったようで、車のコンピュータ的には、古いバッテリーの状態でプログラムされていたそう。

そして今回のルームライト消し忘れ事件がトドメとなり、車のコンピュータが電圧不足と認識し、警告灯を表示したといういきさつのようだった。

 

とにかく、交換等の大事にならずに済んでよかった。走ることには問題ないということであったが、アイドリングストップが使えなくなる、今後も同じように警告灯が誤表示される恐れがあるということで、コンピュータの初期化をそのままかけてもらった。

アイドリングストップについては、使えなくなっても問題ない。なぜなら私はアイドリングストップ嫌いマンだからだ。私の車は、停車時にある一定の強さでブレーキが踏まれるとアイドリングストップが機能する仕組みになっているが、アイドリングストップ嫌いマンの私は、その強さを超えないようにブレーキをかけてアイドリングストップを回避している。

しかし、問題なのは後者だ。警告灯が誤表示されると、本当にやべぇ時に気づけなくなる恐れがある。そのため、今回、修理を依頼した。

 

すぐに直せるということだったので、その日のうちに修理してもらうことができた。

バッテリー交換のような大事にならないことに安堵しつつ、ルームライト消し忘れが原因で4,400円の出費は痛かった。

今後は降りる前にルームライト確認しよう…

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

良ければイイねを。

サ活し申した#2

ゴールデンカムイが見たかった2024

劇場版ゴールデンカムイが見てぇ。先日、見た人から感想を聞いた。その人は

 

「北海道に行きたくなる」

 

と話していた。アイヌの文化を研究したこともあるキャリアをお持ちの方なのだが、アイヌ文化の描写も地元の協会等の協力もあり、ばっちりだったという。

 

これは見に行かねば、と思い立ち、先輩に電話を掛ける。

 

「明日暇ならゴールデンカムイ見に行きません?」

「そんなことよりサウナ行こや」

「サ、サウナですか?」

「サウナ行きたいねん」

「サウナですか…」

 

結局、サウナの誘惑に負けた。

今回のサ活の結果から言おう。バッキバキにととのった。

 

ゴールデンカムイの未練を残しながらのサ活

今回もここへ

ofurocafe-yumoriza.com

体を洗いながら

 

「あ~ゴールデンカムイが見たかったな~」

 

とか未練タラタラなセリフを吐いた。

 

「まぁととのうには勝てへんからな~」

 

という謎論理で説得されサウナへ

 

相変わらずここのサウナは良い。

何がいいかってまずセルフロウリュ。お客さんが自分の好きなタイミングでロウリュすることができる。そのため、サウナ内の湿度はかなり高い。

 

サウナはドライなサウナよりもウェットなサウナのほうが肌への負担を少なくすることができ、汗をかくのが気持ちよく感じる。温度はアホほど熱いけど湿度が低いサウナに入ると、肌がピリピリ痛むことがある。

喩えるなら、湿度の高いサウナは熱帯雨林湿度の低いサウナは砂漠だ。

砂漠系のサウナは肌の表面が焼かれる感覚があるが、熱帯雨林系は体の内側から温まる感覚になれる。

 

後半ラスト3分ぐらいでロウリュをかけると、汗だくの体に熱波が降り注ぎ、この感覚がシャバでは味わえない何とも言えない気持ち良さがある。

 

湯守座サウナの良いところはロウリュだけではない。セルフロウリュサウナに限っての話だが、テレビが無いのだ。

私自身はサウナにテレビはいらない派だ。なぜなら、テレビがあるとどうしてもテレビの方へ意識が向いてしまうからである。特に、17時台の夕方ニュースは、どうしても暗いニュースが流れるタイミングがあり、それを見ながらのサウナは、なんとも集中できない。

しかし、テレビが無いサウナは自分の内面に注意を向けることができる。

 

汗が出る感覚、熱い空気を吸い込む鼻腔の感覚、速くなっていく脈拍の感覚。

 

とにかく自分が今感じている感覚に集中することができる。昨今、このような感覚は「マインドフルネス」と呼ばれ、日々の悩みや不安感から解放され、「今ここに存在している自分」を感じることができる。

 

そして汗をかいたら水風呂へ。

冬ということもあり、水温は12℃ほど。かなり気合が入った水温である。

そこに容赦なく浸かる。

 

「ふぅ~!!」

 

と声が出る。でも5秒ほど我慢すると、冷たさを感じなくなる。そして水風呂から出たら休憩タイム。

今日は外の気温が低かったこともあり、内気浴で休憩。

 

「…ととのったぁ」

 

ゴールデンカムイの未練が消え去った。

マジで今日のサウナは最高にととのった。というのも、先週ごろから考えていた大きな考え事がサウナに入る直前に解決し、悩みが減った状態でのととのい。バッチバチにととのった。

 

そのままいつもの流れで3回ループし、最高のととのい体験を体験した。

 

サウナとセットな炭酸泉

我々が温泉施設に行く時、基本的にお湯には全く興味がない。その温泉が天然温泉だろうが水道水だろうが我々にはどうでもよいのだ。大事なのは気合の入ったサウナとキンッキンの水風呂と広い休憩スペースその3つだけだ。

 

しかしながら、最近はサウナとセットになりつつあるのが、炭酸泉。お湯の中に炭酸ガスが溶け込んでいて、それが血管に浸透することで、血管を広げ体を温めてくれるというものだ。

この炭酸泉、サウナで3セットととのった後に入ると、保温効果が桁違いに上がる。気がする。

服を着て、脱衣所を出て、外に出た後も全く寒さを感じなくなる。私はこの「寒さを感じなくなる感覚」が好きでサウナに3セット入った後は必ず炭酸泉にゆっくり浸かる。

 

サウナや水風呂でいじめられまくった自律神経が、ゆっくりと副交感神経優位に落ち着いていく感覚も味わうことができて好きだ。

 

そんなこんなでバッチバチにととのい、その後にくっそ濃い家系ラーメンを食べ、幸せな金曜日を過ごすことができた。

 

余談 水風呂

私と、サウナに行く先輩は水風呂耐性がやたら高い。

サウナから出た後はマジで躊躇なく水風呂に入る。よく2人で出かけているのだが、たまに別の友人が合流してサ活をするとき、水風呂への侵入スピードや、あたかもお湯に浸かっているような振る舞いに驚かれることが多々ある。

 

この高い水風呂耐性には理由がある。

それは一昨年の夏のことだ。一昨年の夏、我々は、「神馬合宿」と評し、

shinmenoyu.jp

 

三重県桑名市にある神馬の湯という施設に通い詰めた。

ここのサウナは公式92度とかいうアホみたいな温度。しかし、驚くべきは水風呂だ。

水温によって2種類の水風呂があり、低い方がなんと9℃。死ぬぞ。

この水風呂はマジで冷たかった。10秒~20秒入るだけで真夏なのに手足の感覚が消える。

 

そんなハードな水風呂に毎週通い詰めていたもんだから、いつの間にかどんな水風呂でも容赦なく浸かれるようになった。

今思うと、あの夏の「神馬合宿」は我々のサウナの楽しみ方を一段、二段ステップアップさせてくれたなぁと思う。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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アジフライチャレンジ

子どもの頃は好きじゃなかったけど、大人になって好きになるもの。

皆さんもいくつかあるだろう。私の場合はアジフライだ。

 

突然訪れた幸福

今週の月曜日の夕飯はアジフライだった。アジフライに特に思い入れのない私は一人暮らし時代も全く作ろうとは思わなかった。

アジフライに思い入れもなければ、揚げ物をすると、どうしても大量の油の処分方法に困るため、基本的に揚げ物は作らなかった。

 

アジフライに思い入れが無い、というかあまりいい思い出が無かった。実家で出されていたアジフライは中身がパッサパサだし、小骨が大量に入っていやがって口の中が痛い。パッサパサだからご飯も進まないし、割とがっかりおかずぐらいの立ち位置だった。

 

しかし、月曜日に食べたアジフライを食べた瞬間世界が変わった。

 

「なんやこれ、美味すぎる」

 

かなりジューシーだった。アジフライ=パサパサと思っていたイメージが一新された。しかも、骨もほとんどない。

噛めば肉汁が口の中に広がり、とてつもなく美味しかった。

 

しかも幸か不幸か、妻がアジフライを食べられないと言った。妻も私と同じようにアジフライに良い思い出が無かったようで、妻はそのアジフライを食べてもイメージは一新されなかったようだ。そのため、2枚の予定だったアジフライを3枚も食べることができた。めちゃくちゃな幸福。

 

「これどこのアジフライ?」

 

と聞くと、近所のドラッグストアの冷凍コーナーにあったものだと言う。衣が欠けてある状態で冷凍されていて、揚げるだけでOKの代物。それなのにこんなに美味しいなんて…

冷凍技術は進化してるんだなぁと感じた。

 

アジフライチャレンジ

その翌日、妻が地元の友達と遊ぶために実家に帰ることになった。

いない間の夕飯の材料を買っておくから欲しいものを教えてほしいと言われたため、

「アジフライ!!!」

と答えた。

 

また食べるの?と呆れられつつも、同じ冷凍のアジフライを買ってくれた。

 

そして、昨日の夕飯で自分でアジフライを揚げてみた。

フライパンに油をひいて、冷凍のまま放り込むだけの単純作業。

アジフライを作ったことのない身からしてもこの上なく簡単に作れた。

 

出来上がったアジフライを食べてみると、

 

「あれ、なんかパッサパサやぞ…?」

 

同じ揚げ方をしたはずなのに、パサパサやんけ。どうなってんねんこれ…

 

本当に全然違った。美味しくないわけではないが、パッサパサになってしまった。

たまたまハズレを引いてしまったのか、まぁもう2枚あるし明日リベンジやな、と思い、今日の夕飯にまたアジフライチャレンジをした。

 

「またパッサパサやんけ…」

 

なんでや。昨日は揚げすぎたからパサパサになったのかなと思い、今日は揚げ時間を短くしてみた。でもなぜかパッサパサ。え、なんで?

 

パッサパサのアジフライを食べながら、揚げ物ほとんどしたことない自分とこれまで1年間毎日欠かさず料理をしてくれた妻とは腕前の違い実感した。

同じフライパンで、同じアジフライだったが、自分にはない絶妙な感覚で揚げてくれていたんだろう。

帰ってきたら、アジフライの揚げ方を伝授してもらわなければ。

 

謎に感謝の気持ちが込み上げたアジフライチャレンジだった。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

BUMP OF CHICKENのgood friendsについて語りたい

"good firends"

エグい曲に出会ってしまった。

まだまだ私自身、BUMPの深堀が足りなかったと思いつつ、良い曲にを見つけた喜びを感じている。

今日はそんな気持ちを語りたい。

 

人間関係の変化

この曲は「宇宙飛行士への手紙/モーターサイクル」のシングルに収録されている曲。

この曲の大きなテーマは「大人の人付き合い」なんじゃないかなと思う。「心」のつながりで付き合う人を選ぶのではなく、いつの間にか「損か得か」の物差しで付き合う人を選ぶようになってしまった大人時代。

そんな私たちに向けて、「きっと仲良くできるはず」と問いかけてくれる唄だ。

また、BUMPの憎いところなのだが、曲を通して全く説教臭さを感じない。「もっと心でつながろうぜ!」のような強い口調ではなく、「変わっちまったなぁ」と共感しながら、でも毎日をきちんと生きようとするみんなに応援のメッセージを贈ってくれる。これがBUMPよ。

 

歌詞を見ながら語りたい

ということで歌詞を見ながら語っていく。

この曲は冒頭の歌詞からしっかりBUMP節全開である。

比較対象探しの毎日

知り合っても知らなくても

知識苦労資格 今あいつは

人としてどんな具合

藤原様ぁ。マジでコレ。なんでこんなに比較しながら生きちゃうんだろうね。

2行目の歌詞もヤバい。知り合い・知らない人問わず比較してしまうのである。

その人自身を見ず、肩書きや資格などでその人を判断するようになったのはいつからなんだろうか。

 

長くなりすぎるので印象的なものを引用していく。

好きになれないものを見つけたら

わざわざ嫌わなくていい

そんなもののために時間割かず

そっと離れればいい

2番のAメロ。個人的にこの部分が1番好き。「わざわざ嫌わなくていい」。そうなんだよな。嫌いなものを作り出すのは自分自身。それよりもっと自分を大切に生きたほうが良いに決まっている。

「そっと離れる」っていう表現も絶妙。攻撃することもなく、防御態勢に入るわけではなく「離れる」を選択すること。人生においてとても大事なことだろう。

 

しかし、これで終わらないのがBUMP。Bメロを見てみよう

大人なら触らずに

いたずらに傷つけずに

だけど自分が無いから誰かが

気になっちゃって仕方ない

極上です。Aメロだけならただのお説教。でもこのBメロがあるからBUMPなのだ。自分から気にしようとしてないのに、「気になっちゃう」のだ。能動的ではなく受動的。

頭では「嫌いなものからは離れよう」とわかっているのに、ついつい目に入る。そして人生の時間を損してしまう。そんな毎日を送ってしまうのだ。

 

そしてラスサビ前のBメロ

心は健やかに

適当に穏やかに

全部諦めたようなふりして

試みてもいないのに

2行目の「適当に穏やかに」。刺さるね~。実は1番のBメロの歌詞にも同じような歌詞がある。

心は健やかに

いつでも穏やかに

そう、1番では「いつでも」に対し、ラスサビ前は「適当に」なのである。この「適当」の歌詞をどう取るかによるが、私は「浮かない程度に穏やかに」と思っている。

 

いろいろと思うことはたくさんあるけど、まぁ波風立てないようにしとくか。

 

そんな気持ちを描写していると思う。

初めの「穏やか」は主観的に穏やかになろうという意味なのに対して、2回目の「穏やか」は他者の視点が入る客観的な穏やかなのである。大人の生活ってマジでこれ。

主観的な言葉である「穏やか」がいつの間にか客観的要素を含む意味に変わってしまうのである。人間臭い歌詞だなぁとつくづく思う。

 

ラスサビ

きっとさ仲良くできると思うんだ

見下し続けるのはどうにも似たくないから

その気があるとかないとかの話じゃない

きっとさ仲良くできると思うんだ

しないんだ

天才です。

まず、この曲の中で最も語られる言葉、「きっとさ仲良くできるんだ」のフレーズ。

そして、その後にそれを阻害する「見下す」という行為。これに対して、なぜ見下すのかというと「どうにも似たくないから」。そう、同じ穴のムジナにはなりたくないのだ。勝手に他人と自分を比較して、「この人とは違う」と思いたいのだ。しかも、それは「その気があるとかないとかの話じゃない」。もう無意識のうちに勝手に比較している。だから、「きっと仲良くできるんだ」

 

この曲のすべてがラスサビに詰まっている。人間誰しも、仲良くなれるはず。合わない、嫌いと決めつけているのはあくまで自分自身なのだ。

と、思わせておいてのラスト「しないんだ」。しないんだ~!のシャウトでこの曲は終わる。

 

結局仲良くしないのだ。

 

つまり、勝手に他人と比較して嫌っている自分を認識し、仲良くなれると思ったうえで仲良くならないというどこまでも人間臭い歌詞。

 

あまりにも人間。あまりにも人生である。

 

この人間臭い歌詞こそBUMPの真骨頂。

 

人生の応援歌

私がこれほどにまでBUMPを好きな理由は、彼らの唄は「人生の応援歌」だと思っているからだ。

彼らの曲は一貫して、

 

「なんか知らぬ間に大人になっちまって嫌なことばっかやけど、まぁもうしばらく生きてみようぜ」

 

というメッセージを感じる。自分を変えるとか、世界を変えるみたいな大げさなことではなく、等身大の自分を受け入れて生きていく勇気を与えてくれる。

これがBUMPだ。

そんな優しい応援歌に支えられて今日も生きている。

 

ここまで読んでくださりありがとうございました。

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バスケ観戦のすゝめ

新たな趣味獲得へ

音楽にせよ、お笑いにせよ、エンターテイメントは生で見るのが良い。

スポーツ観戦だってそうだ。テレビで見るより、やっぱり生で見る臨場感は生で見なきゃ味わえない。

 

1月17日、日本のプロバスケットボールリーグのBリーグの試合を生観戦した。

やっぱり生は良い。

 

試合は、名古屋ダイヤモンドドルフィンズ琉球ゴールデンキングスの試合。

最終スコア77対75の激アツ試合だった。

特に第4Qは両チームがスリーポイントを打ち合い、最後の最後までどちらが勝つか全くわからない試合。気づいたら手汗びちゃびちゃになっていた。手に汗握るとはこういうことなんだろう。

終わった後、しばらく余韻で動けなくなった。めちゃくちゃ感動したんだろう。

 

激アツの第4Qで印象に残っているシーンを綴ります。

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この動画を拝借して

 

#34ジョシュアのスーパーダンク

動画で言うと3:30からのプレーになる。場面は残り3分50秒で1点差の場面。

トップで#1レイにハンドオフでパスをしたジョシュアがゴールにダイブ。ペイントエリアに侵入したレイがジョシュアに合わせてダンク。

 

「ジョシュアー!!!!」

 

めちゃくちゃ叫んだ。一緒に見に行った先輩もクソ叫んでた。

我々の推しはこのジョシュア選手である。この体格。立ってるだけで3人分のスペースはあろう体格。

そして、現代バスケットにおけるペース&スペースの考えに逆行するプレースタイル。

あまりにもオールドスクールなビッグマンだ。愛しすぎる。

この試合の中でも、相手のガードのスピードに苦しめられる場面が何度もあった。でもそんなうっぷんを晴らすかのようなこのクラッチダンク。もう叫ぶしかねぇ。

 

琉球、怒涛の追い上げ

対戦相手の琉球も負けてはいない。#15松脇、#14岸本のスリーポイントが止まらない。

特に震え上がったのは映像の3:36からの#14岸本のステップバックスリーだ。

スクリーンを使ってディフェンスをはがし、ダブルステップバック。キレッキレだった。名古屋のディフェンダーアンクルブレイクされて後ろに吹き飛ぶ。そのままワイドオープンでスリーポイント

NBA選手のジェームスハーデンを思わせるステップバック。こういう時、NBAの実況ではCookingと表現されることが多いが、まさにCookingだった。

 

「やべぇ!Cookingですやん!」

 

とかいう意味わからん日本語を先輩に向かって叫んでた。

 

「Cookingやな!!!」

と、先輩。日本語の語彙がなくなる瞬間だ。

Cookingという語彙がちょうどよすぎるのだ。

 

そしてその直後の#15松脇のスリー。ペイントエリアに侵入した#7ダーラム選手のキックアウトを受け取ってシュートを放つ。

不思議なものだなと思うのが、こういう場面のスリーは打つ前から、「あ、入る」とわかるものである。

 

松脇選手がワイドオープンでパスを受け取った瞬間

 

「いった!!!」

 

と叫ぶ。

ボールが自らの意思で動いているかのようにゴールに吸い込まれる。

名古屋ファンのため息と琉球ファンの叫びに会場が包み込まれた。

 

クラッチスリー

勝負を決めたのはその次のプレーである。

74対75の琉球1点リードで迎えた残り20秒の場面。#7のダーラムが名古屋のペイントエリアにフィジカルを活かして侵入し、そのままシュートに持ち込む。

 

「あかん、やられる」

 

そう思った瞬間、名古屋の#34スコットのブロックが炸裂。

そしてボールは#2斎藤の手元に。鬼のような速度でボールをフロントコートに運ぶ。

会場中が大歓声に包まれた。

「走れ!!!」

と叫ぶ。

スリーポイントラインにたどりついた瞬間#11須田にパス。そのままシュート。

ボールが空中にある一瞬、会場は静まり返る。ボールがネットに触れる音がスタンドまで聞こえてくるレベルの静寂。そして、爆発するよう大歓声。

 

「おおおおおおおおお!!」

 

揺れる揺れる。会場が揺れていた。

そしてそのまま2点リードを守り切り名古屋の勝利だった。

 

感動と興奮のバスケ観戦

終了のブザーが鳴り、しばらく席で呆然となった。これが余韻というものか。

ここに書いたことは時間にしてみればたかが5分の出来事。でも、その5分で2時間の映画を見たかのような余韻をもたらしてきた。

しばらく呆然とし、帰りの車の中でも余韻に浸った。

すごい試合だった。

 

私と一緒に見入った先輩は、特別にドルフィンズのファンでもないし、琉球のファンでもない。(ジョシュアという選手は推しているが)

ただバスケが好きで、家から近いという理由で名古屋のドルフィンズアリーナに行っている。だから、クラッチタイムでは両チームの良いプレーに感動しまくるのである。

この試合は私のスポーツ観戦歴の中で最高の試合だった。

 

会場の一体感を味わえるバスケットボール観戦。

ここまで読んでくださった方、ぜひバスケ観戦に出かけてみてください。

ありがとうございました。

1人の時間

どうも。Sunshineです。ただいま3℃とかいう気温の中でキーボードを叩いています。指がガチガチよ。

 

今日は、妻が実家に帰省中のため、1人で家にいます。

そんな中、「1人の時間ってええなぁ」と思ったので、その気持ちを綴ります。

 

6年の一人暮らし生活を経て

私は、大学入学以降、実家を離れて1人暮らしをしています。就職後も1人暮らしを続け、6年が経った後に今の妻と結婚し、2人暮らしになりました。

結婚生活に不満はないし、今のところ楽しくやってます。

でも、ふと時々思うのが、

「1人になりてぇ」

と思うことがあります。

 

1人の時間が必要な私

私は内向的な性格です。集団の中で生活することがとても苦手なのです。

大学時代もあまり人と関わらず、仲の良い部活のメンバーとつるんでいました。

大人になった今、なぜこんなに人と関わるのが苦手なんだろう、と思うことが多々あります。

 

その理由は、2つあると思っています。

1つは自分自身が他人の感情にあまり興味を持っていないことです。他の人が、「これが良かった」とか「この前○○に行ってきた」とかいう話は自分にとって全く価値が無いように感じてしまいます。興味が湧いた時にはよく喋りますが、それはあくまで「物事」に興味があるのであって、その人自身に興味があるわけではないのです。だから、自分が大切だと思えるライン(家族とか親友とかのライン)を超えていない人たちと関わるときはどうしても「興味関心が同じ方向を向いているのか」「この人と関わって得になるか(あるいは、関わらないことによって損が生まれるか)」という損得勘定が優先されてしまいます。

そのため、大学時代には「音楽」という同じ興味関心を持つ奴らとつるむことができましたが、社会に出てみるとうまく立ち行かないのです。

 

2つ目の理由は、1つ目と全く矛盾しているように感じますが、集団でいる時に、あの人は今どんな気持ちなんだろうと考えてしまい、疲れてしまうからです。他人の感情に興味が無いのに、センサーは敏感なのです。自分でも矛盾した性格だなと思うのですが、人の感情を「察する」と「興味がある」のは別の動きなんだと思っています。

こんな自分にとって飲み会とかは最悪です。なぜなら、誰かがイジられてでもしたら、その人の気持ちはどうなんだろうとか考えちゃうし、そこにいない誰かの陰口でも始まろうもんなら、これを聞いたらその人はどう思うだろうとか考えてます。その結果、無茶苦茶に疲れます。常に自分の心の中の正義マンが、「おい、やめろ!」と偉そうに叫んでいるのです。集団にいるときはそんな声を常に聞いているわけですから、無茶苦茶に疲れてしまいます。

 

つまり、自分の性格は「他人の感情に興味はないけど、他人の感情を考えてしまう」とかいう無茶苦茶な性格をしているのです。

 

そんな性格だから、人といること自体がすごく疲れます。だから、時々人と接するのに疲れた時に「1人になりてぇ」と思う瞬間が来るわけです。

 

1人暮らしの頃は、「1人になりてぇ」と思わなかったです。なぜなら、そんなこと思う間もなく、家に帰れば1人だからです。

でも、結婚してから「自分には1人の時間が必要」ということに気が付きました。

 

1人の時間

そんな1人の時間、何をするかというと、特にありません。普段通りのことをします。

1人の時間を過ごしていると、ふと、「楽やな」と思う瞬間が来ます。

その時に、「知らず知らずのうちに気疲れしてたんだな」と気が付くことがあります。その気持ちに気づく時間が大切なのです。

ふぅっと一息付ければ、また明日から好きじゃない集団生活に飛び込んでいけるのです。

 

結婚する前は、「これで一人暮らしからはおさらば」なんて思っていましたが、一人暮らし生活を失ってみると、「1人になりてぇ」となる。なんと矛盾しててわがままなんでしょう。でも、これが人間なんだなと思います。

 

自分のための自分だけの時間。この時間をこれからも大切にしていきたいと思います。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

普段は常体なのになぜか敬体になっていたことを書き終わってから気づき申した。